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クソポエムとかクソポエムじゃないのとか

(。・ω・。)

喉が痛い。

めそめそ泣いたり、過去について考えたり、無意味なことをしていた。ベッドにぶっ倒れて完全に動かなくなってから、少なくとも2日は経過している頃だ。

「まだ寝てるの」

声がして、すこしずつ身体の感覚が戻ってくる。腕には、体温がうつって生温くなったシーツの感触が、頬には枕に巻いたタオルのざらつきが、感じられた。

喉が痛い。舌の根の上あたりが、完全に乾燥しきっていた。微妙な尿意と、身体全体が冷えきっているのが自覚された。思い出したようなくしゃみが出る。腹筋に力が入らず、へちょ、みたいな情けない音になった。

「そろそろ起きないと」

後悔するよ、と言って、無理やり身体を動かす。頭が重い。首の筋が悲鳴をあげ、耳の奥が鋭く痛んだ。後悔してるからいまこうなってるんだ、と言おうとして、やめた。左耳が聞こえなくなっていた。思考だけの、暗くて堂々めぐりの場所に、また転落していきそうだった。そう思いながら一方で、もう大丈夫だ、とわかっていた。経験的に。不誠実で自分本位な私は、悲嘆に暮れる己の姿を嘲笑し、彼に言わせれば無意味でバカバカしいこの数日の怠惰と不健康を赦し、淀んだ淵から解放してくれるはずだった。

「水!」

宣言して、ガサツに起き上がらせる。身体じゅうの関節から、古びた木戸の軋むような音がしそうだった。

 

鬱はつらい。でもこの表現が、感じる苦痛を十全に反映しているのかと考えると、決してそうではないと思う。この心情、感覚、状況を表現するのに、つらいとか、死にたいとか、そんなしょぼくてありきたりな言葉しか用意されていないのは、言語の欠陥にすら思える。

思考が同じところをぐるぐる回って、永遠に終わらない。そして別に、その間ずっと、死にたい、とだけ思っているわけではなかった。死に対する消極的な意欲は常に存在しても、それ以外の意思も並行して存在する。それらは大抵、死ぬには不都合な代物なのだ。そうした並行して在るごちゃごちゃしたものたちの強さの割合によって、そのときの「私」としての思考の色が決まる。単純にずっと死にたいという思いだけが支配的なら、別にそこまでつらくもないし、苦労もしない。さっさと死ねばいいだけだ。

思考がこの牢に入り込んでしまうきっかけは何なのだろう。わからない。どんなに躁の絶頂にいるときでも、一瞬の、些細な、ふっと吹きつけてきた生ぬるい微風のようなもので、あっという間にここに来てしまう。引き金となるそれはあまりに変化に富み、あまりに予測不能で、避ける術がない。

たとえば夏の騒音の中で、蝉の声に気づいた瞬間のこともあった。電車とホームの隙間を見たとき、ビー玉の中に泡を発見したとき、過去の記憶を夢見たとき、好きな物語について考えたとき。いかにも沈んだ気分に陥りそうな、明確でわかりやすい陳腐なものから、まったく無関係にしか思えないものまで。

 

きっかけなどどうでもいいことだ、と私は思い直す。何が思考を、循環する濁流に突き落とすのか。そこを巡っている間は、そこまで大した状況ではない。死、あるいは消滅、という選択にむかって明確に転落し、身体が動かなくなって、視界が暗転したり耳が聞こえなくなったり、わけのわからない状態になっていくのはいつも、その思考の環から抜け出すときな気がする。

 

jpはいいところだ。たとえば死にたいときに、死にたい、と言う。jpでは、誰かが気づいて、心配してくれる。本当に深刻であるということを汲んで、私の望むこと、少なくともそれに近い言葉をかけてくれる。それはあまりにもわかりきったことで、そのとき私はそれを完全に見越した上で、死にたいと言っている。そういう自分が、嫌いという言葉ではあまりに不足なくらいにおぞましく感じられて、嫌悪感が私を苛む。

だから言わない。それはとても苦しいことで、他のことは何も考えられなくなる。結局、何も言えなくなるのだ。リアルでもそれは同じことだ。関係を断ち、閉塞的になり、過度な内観にとらわれていく。好きな人と絶交し、親切に暴言で報いる。胃が捩じ切れそうだった。それでも、傷つく自分は醜く、悪寒がした。再帰的に、それは永遠に繰り返す。

 

真面目な人ほど鬱になりやすい、という話をたびたび聞く。それはきっと、不器用という意味なのだろうと思う。人生というものに対して、深刻すぎるのだ。すべてを真摯に受け止め、誠実であろうとするせいかもしれない。自分に。ずぼらでガサツでいい加減で、一貫性を欠いた、不誠実な自分になるのが怖い。きっとその自分を、本当の意味で、私が認められないのだ。私は私を嫌悪し、自分を嫌悪する私を嫌悪する。鬱に沈む私を嫌悪し、そのことを対外的に主張する私を嫌悪し、助けを求めようとする私を殺しに行く。

 

不誠実になろうと努力してきた。つとめて約束を破ろうとしてきた。答案用紙を白紙で提出し、意図して待ち合わせに遅れた。淫蕩で愚かで暴力的で、退嬰的であるために労力を払った。でも、理想には程遠かった。私を嫌悪する誠実すぎる私は相変わらず私の内に棲んでいた。ただ、表に立つ自分が、理想の生み出したわけのわからない幻影に交代しているだけだった。

 

水は冷たく、食道を、体内を、伝っていくのがわかるほどだった。

「今回はずいぶん簡単に起きれたね」

声は、いくらか怪訝そうだった。アドベントカレンダー書かなきゃだから、と言うと、呆れ果てたような溜息が出た。だからお前は鬱なんだよ、と。

jpを離れることは、もはやまったく解決の助けにならないどころか、むしろ逆効果でさえあった。誰かが気づいて、私を心配しているはずだった。リプライも来ているだろう。私はそれを知っている。あらかじめ予想できたことだ。やっていることはきっと、心配してもらうために死にたいと言っているのと全く同じ、あるいはそれよりもタチの悪いことなのだ。誰もいない台所で、目の前には持ち手を向こう側にした包丁が並べて置かれていた。おぞましい自分が耐えがたかった。

私は極めて冷静で、落ち着いていた。自分に死んでほしかった。

 

死ねば解決するのだろうか? 私は友人や家族に恵まれた。それはとても残酷なことに思えた。私が死んだら、彼らは必ず、心から悲しんでくれるはずだった。心の奥底で、私はそれを望み、同時にそのことを見越していた。悲しまれるために死ぬ。それは究極の承認欲求、最高の醜陋に思えた。そのとき、自分はどうなるだろうか? 死んでいるから無関係だと、いまこの瞬間、納得できるだろうか? 完全に自分の望む形で消滅するには、存在の力をまるごと食われて、すべての人の記憶から抜け落ちるしかないように思えた。あるいは、時間がそれを実現するのを待つのもひとつの選択肢かもしれなかった。

アドベントカレンダー、書くんでしょ」

片付けながら、呟く。残念ながら、紅世の徒には出逢えそうにない。不誠実な私は私を押しのけ、前に立った。死ぬのは怖い。重い水の底から、鎖で引き上げられていく。

 

アドベントカレンダーがもう一件あるのを思い出した。年賀状おえかきするんだった。初日の出見に行こうって言ってたんだった。モンハンやろって約束してたんだった。やりたいことがたくさんあるんだった。

 

マストドンに絡む内容」を書く、「クリスマスを楽しみにする」アドベントカレンダーを、こんな意味不明で不合理な、痛い駄文で汚してゆるされるのだろうか? 

もちろんゆるされるよ

私は不誠実で自分本位だからね

 

jpだいすき

おなかすいた